サイゼリヤのパスタを「本場に近い」と思って食べているなら、ナポリタンだけは全く別の話です。
マッシモ・ボットゥーラ(Massimo Bottura)は、1962年イタリア・エミリア=ロマーニャ州モデナ生まれのシェフです。1995年に故郷モデナで「オステリア・フランチェスカーナ」を開業し、2002年にミシュランガイドの一つ星を取得、2006年に二つ星、そして2012年に最高位の三つ星を獲得しました。さらに2016年と2018年の2度にわたって「世界のベストレストラン50」の第1位に選ばれています。
つまり世界で最も認められたシェフの一人です。
彼の哲学を一言で表すなら「記憶と感情の料理」。代表作のひとつ「Oops! I Dropped the Lemon Tart(おっと!レモンタルトを落としちゃった)」は、日本人パティシエが完璧に仕上げたレモンタルトを誤って落としてしまったことから生まれた一皿です。失敗作にボットゥーラは「これはとても美しい。これこそ完璧だ」と言い放ち、その「崩れた形」をそのまま芸術に昇華させました。不完全さの中に美を見出すというスタンスが、料理人としての彼の核にあります。
また、彼は料理の腕だけでなく、社会活動でも知られています。2015年のミラノ万博を機に、妻ララ・ギルモアと非営利団体「Food for Soul」を設立。フードロス削減と社会的孤立の解消に取り組み、2020年には国連環境計画(UNEP)親善大使にも任命されています。
2025年9月には大阪・関西万博のイベント「Top Chef in OSAKA 2025」に招かれ初来日(大阪)。「大阪には日常の中に食べる哲学が息づいている」と語り、生産者への敬意をホテルニューオータニ大阪での全8品に込めました。このとき、事前に考えていたメニューを来日後に変更してまで大阪の食材を活かした一皿を作り上げたというエピソードが印象的です。
ボットゥーラが料理に対して誠実である点は、ここに集約されます。
料理通信:マッシモ・ボットゥーラ来日インタビュー(倫理と美学、一皿に込めた使命)
2025年末に国内外で広く拡散された動画「オイオイ…これがパスタだと?」では、マッシモ・ボットゥーラが日本のナポリタンを初めて口にした際の反応が収められています。世界一のシェフが一瞬黙り込んだ——この映像が日本国内はもちろん、海外のパスタファンの間でも大きな話題を呼びました。
なぜ彼は沈黙したのでしょう?
答えはシンプルです。それはナポリタンが「イタリアのパスタの常識」を完全に覆した料理だったからです。本場のパスタは「アルデンテ」が絶対条件で、ソースは素材の風味を生かし「和える」のが基本。対してナポリタンは茹で置きしてふにゃふにゃにした太麺を、ケチャップと具材でガンガン「炒める」料理です。
イタリア人からすれば「ありえない」の一言です。
しかしボットゥーラの哲学の核は「固定概念を崩すところに美がある」でした。ナポリタンを一口食べた瞬間、彼は感じ取ったはずです。アルデンテを捨てることで生まれる濃厚なソースとの一体感、高温で炒めることで酸味が飛び旨みとコクに変わるケチャップの変容、ピーマンの青い苦みがもたらすメリハリ——これは、失敗から生まれた美しさと同じ文法で語れる料理だ、と。
「常に変化し続ける伝統がある」という言葉はボットゥーラ自身の言です。日本のナポリタンはまさにその体現でした。食べ慣れているサイゼリヤのトマトパスタとは全く別の次元で、ナポリタンという料理は「日本が生み出した洋食の傑作」として世界一のシェフを黙らせる力を持っているのです。
YouTube:「オイオイ…これがパスタだと?」マッシモ・ボットゥーラが日本のナポリタンを初体験した動画(海外の反応・GJNチャンネル)
サイゼリヤが好きな人の多くは、イタリア料理の知識がある程度あるはずです。だからこそ「ナポリタン=イタリアのナポリが発祥」と思い込んでいる方も少なくありません。
実はそれは完全な誤解です。
ナポリタンは戦後の日本、横浜で生まれた純日本産のパスタ料理です。発端は終戦直後の1945年頃にさかのぼります。横浜に本拠地を置く「ホテルニューグランド」(1927年開業)に駐留したGHQ(連合軍)の米兵たちが、茹でたスパゲッティに塩・コショウ・トマトケチャップをかけて食べていた姿を、当時2代目総料理長を務めていた入江茂忠氏が目撃しました。
「ホテルで提供するにふさわしい料理に仕上げよう」。入江氏の職人魂がその思いつきを傑作に変えました。
米兵の即席ケチャップパスタを土台に、玉ねぎ・ピーマン・ウインナーを加えてフライパンで炒め合わせる調理法を確立。「スパゲッティ ナポリタン」として昇華させた入江氏は、和食・洋食の両方を熟知する料理人ならではの感覚で、日本人の口に合うコクと旨みを一皿に封じ込めました。ホテルニューグランドでは現在もこの元祖ナポリタンを一皿2,340円で提供し続けています。
昭和の戦後復興期に生まれた背景も重要です。物資が不足する時代に「手に入る食材でいかに美味しく、腹持ちよく」を追求した結果が、今もなお日本人に愛される赤いパスタになっています。「名称だけ外来で、魂は完全に日本」——これがナポリタンの正体です。イタリアのどのシェフも2000年間考えつかなかった調理法で完成したこの料理が、世界一のシェフ・ボットゥーラを驚かせたのは、ある意味で必然だったのかもしれません。
ホテルニューグランド公式サイト:発祥の伝統料理ページ(ナポリタン・ドリア等の由来解説)
サイゼリヤが好きな方なら気づいていることがあります。あれだけ豊富なパスタラインナップでありながら、グランドメニューに「ナポリタン」が存在しないという事実です。
これは偶然ではなく、ポリシーの違いによるものです。
サイゼリヤはイタリア料理チェーンとして「本場イタリアの食文化を日本に届ける」というコンセプトを掲げています。イタリア産のトマトソース、パルマ産パンチェッタ、ペコリーノ・ロマーノといった食材を使い、できる限り本場に近い形でメニューを構成しているのが特徴です。そのためケチャップをベースとするナポリタンはそのコンセプトとは異なる位置づけになっています。
逆に言えば、これはサイゼリヤのパスタの「本物らしさ」の証でもあります。
実際に在日イタリア人通訳者のマッシさん(マッシミリアーノ・スガイ氏)はサイゼリヤについて「コスパが良すぎて本場イタリアの味に近い。まるでイタリアに帰った気分になる」とコメントし、SNSで大きな反響を呼びました。同氏が薦めるサイゼリヤの食べ方として、「トマト系のパスタにたっぷりのグランモラビアチーズとオリーブオイルをかけてよく混ぜ、もう一度チーズをかける」というアレンジが知られています。これは本場イタリアでごく自然に行われる食べ方で、サイゼリヤのパスタがその土台として十分な完成度を持っている証拠です。
つまり、サイゼリヤが好きなら「イタリア本場のパスタ文化」と「日本オリジナルのナポリタン」は全く別物として楽しむのが正解です。サイゼリヤでイタリアを味わい、喫茶店でナポリタンを味わう。この二刀流が、パスタ好きとして最も豊かな選択です。
note:イタリア人マッシさんによるサイゼリヤ完全攻略マニュアル(本場流の食べ方を徹底解説)
マッシモ・ボットゥーラが「不完全さの中に美がある」と語るとき、それはナポリタンの調理法と驚くほど重なります。ナポリタンのおいしさは、いくつかの「常識破り」の積み重ねによって生まれています。
まず「茹で置き麺」のメカニズムです。本場イタリアのパスタは茹でたてのアルデンテが鉄則ですが、ナポリタンはあえて一度茹でた太麺(1.9mm〜2.2mm推奨)を冷蔵庫で一晩寝かせます。麺の中心まで水分が行き渡り、もちもちとした独特の弾力が生まれる——この食感こそが、濃厚なケチャップソースを受け止める最高のキャンバスになるのです。細麺のアルデンテでは逆にソースが絡まず酸味が突出してしまいます。これが基本です。
次に「ケチャップを先に炒める」という重要なポイントがあります。ケチャップはそのままでは酸味と甘みが強く、パスタに直接合わせると味が単調になりがちです。しかし空のフライパンや具材を炒めた後のフライパンに先にケチャップだけを入れて強めの火で1〜2分炒めると、酸味が飛んで深いコクと甘みが引き出されます。鍋肌にケチャップがうっすりくっついてくる状態が目安です。
ウインナーとピーマンの役割も重要ですね。
ウインナーから出る脂と塩気がソース全体を深みのある味にまとめ、ピーマンのシャキシャキした食感と青い苦みがケチャップの甘さに対するアクセントになります。この苦みがなければナポリタンは単なる「甘い赤いパスタ」になってしまいます。玉ねぎの甘み、ウインナーの塩気、ピーマンの苦み、ケチャップの旨み——四者が一体となることで初めてナポリタンは完成します。仕上げにバターを少量加えるとコクが格段に増します。
食べるときはタバスコと粉チーズを忘れずに。タバスコを数滴垂らすと甘みの中にピリッとした刺激が加わり、風味が立体的になります。在日イタリア人たちも「あれはパスタじゃない、ナポリタンという別の食べ物だ」と言い訳しながらタバスコと粉チーズをたっぷりかけて笑顔で食べているというエピソードは、それだけナポリタンが国境を超えた美味しさを持っている証拠です。
ボットゥーラが「レシピは常に進化し、固定されたものはありません。ジャズのセッションのように変わりゆくものです」と語るように、ナポリタンも家庭ごとに少しずつ違う。その「ゆらぎ」が昭和から令和まで愛され続ける理由かもしれません。
ホテルニューグランド公式:元祖ナポリタンの現在の提供価格と内容(ザ・カフェのメニューページ)