豚肉を60℃以下で低温調理すると、食中毒リスクが跳ね上がります。
「ヴィテッロトンナート(Vitello Tonnato)」という名前を初めて目にしたとき、多くの人は読み方すら迷います。イタリア語でヴィテッロは「仔牛」、トンナートは「マグロ(ツナ)風味の」という意味で、直訳すると「仔牛のツナソースがけ」です。お肉にツナをかけるという組み合わせは一瞬「え?」と思わせますが、食べると驚くほど相性抜群であることが分かります。
この料理の生まれ故郷は、イタリア北部のピエモンテ州です。アルプスの麓に広がるこの地域は、バローロやバルバレスコといった銘醸ワインの産地としても名高く、食文化の豊かさで知られています。ヴィテッロトンナートが生まれたのは19世紀ごろとされており、当時は冷蔵設備がなかったため、茹でて冷やした肉をソースで旨味を補いながら保存するという生活の知恵から生まれた料理でした。もともとは日曜日の家族の食卓や祝祭日に登場するちょっとした馳走だったのです。
つまり「庶民の冷蔵保存の知恵」が起源です。
やがてこの料理はトリノやクーネオ周辺の家庭・レストランに広まり、現在ではイタリア全国の夏の定番前菜として、そして世界中のイタリアンレストランで提供されるほどのポピュラーな一皿になりました。サイゼリヤでもこの料理がメニューに並ぶことがあり、コスパの良さで知られる同チェーンがあえてピエモンテの郷土料理を取り入れているのは、それだけこの料理がシンプルな食材ながら「格上げ感」を演出できるからだと言えます。
ピエモンテ州は海から遠い内陸の地です。だからこそ、アンチョビやツナといった魚の加工品が、肉料理に組み合わせられる食文化が育まれました。お肉と魚のソースという一見ミスマッチな組み合わせは、実は「内陸の料理人が考えた絶妙な発明」でもあります。これは意外ですね。
参考:ヴィテッロ・トンナートの歴史・由来・レシピについて詳しい解説
ピエモンテ州の伝統料理「仔牛のトンナートソースがけ」|note
ヴィテッロトンナートを自宅で再現するにあたって、最大の壁となるのが「仔牛肉の入手難易度」です。本来は仔牛のモモ肉やランプ肉を使いますが、日本の一般的なスーパーに仔牛肉はほとんど並びません。そこで多くのレシピで推奨されているのが豚フィレ肉や豚ロース肉での代用で、これが実際に現地のトラットリアでも行われていることは、あまり知られていません。豚肉を使った場合はイタリア語で「マイアーレ トンナート(Maiale tonnato)」と呼ばれます。
低温調理の条件は食材によって異なります。これが条件です。
牛肉・仔牛肉の場合は、55〜57℃で2〜3時間の湯せん調理が一般的で、表面に火を入れてからジップロックに封入し、低温のお湯に浸けることでロゼのようなしっとりした仕上がりになります。一方、豚肉を使う場合には話が変わります。豚肉には牛肉と異なり、E型肝炎ウイルスが存在する可能性があります。厚生労働省および食品安全委員会の基準では、豚の食肉は中心部の温度を「63℃で30分以上」加熱することが義務付けられています。
| 食材 | 推奨温度(湯せん) | 中心温度の目安 | 調理時間の目安 |
|---|---|---|---|
| 仔牛肉 | 70〜72℃ | 65〜68℃ | 約1時間 |
| 豚フィレ肉 | 65℃ | 63℃以上 | 約1時間30分〜2時間 |
| 牛もも肉 | 57℃ | 55〜57℃ | 約2時間30分 |
重要なのは、「お湯の温度」ではなく「肉の中心部の温度」がこの基準を満たしているかどうかという点です。家庭用の調理温度計を使い、肉の最も厚い部分に刺して確認することを強くお勧めします。食品安全委員会の調査によると、63℃のお湯に入れた豚肉は中心温度が63℃に達するまでに平均約90分かかります。そのうえでさらに30分の保温が必要なので、実質2時間以上の調理時間を確保することが安全の前提条件です。
低温調理の際、もう一つ気をつけたいのがジップロックの密封です。空気が残ったまま調理すると、空気の部分が断熱材になって熱の伝わりが遅くなります。水を張ったボウルやバットにジップロックを沈めながら封をすることで、水圧を利用して空気をきれいに抜けます。この一手間が均一な加熱につながります。これは使えそうです。
参考:内閣府 食品安全委員会による低温調理の安全ガイドライン
肉を低温で安全においしく調理するコツをお教えします!|食品安全委員会
トンナートソースを「ただのツナマヨ」だと思っていると、仕上がりが平凡になります。このソースの核心は、ツナ・アンチョビ・ケイパーという3つの食材が持つ「旨味の重なり」にあります。それぞれの素材がどのような役割を果たしているのかを理解すると、味の調整がぐっとしやすくなります。
まずツナ缶は、ソースのベースとなる旨味の土台です。オイル漬けタイプを使うと乳化がしやすく、よりなめらかなソースに仕上がります。アンチョビは塩気と深いコクをプラスする役割で、量は少量(2〜3枚)でも全体の味の輪郭をしっかり引き締めます。そしてケイパーは酸味と独特の香りで、こってりしがちなツナとマヨネーズの組み合わせにキレを与えます。この3つが揃って初めてトンナートソースの「複雑な旨味」が完成します。
ソースの作り方は意外とシンプルです。
これらをブレンダーやフードプロセッサーで撹拌し、最後に煮汁(肉を調理したスープ)を大さじ2〜4ほど加えて濃度を調整します。この「煮汁で濃度を調整する」というステップが一般的なレシピではあまり強調されていませんが、プロの現場では当たり前の手法です。煮汁を加えることで肉とソースの味が統一され、「一体感のある」仕上がりになります。
ソースは「かけやすい濃度」が原則です。スプーンでかけたときにゆっくりと広がるくらい、ヨーグルトよりやや固い状態が目安です。固すぎると肉全体をコーティングできず、薄すぎると見た目が間延びします。作り立てより30分〜1時間冷蔵庫で休ませると、各素材の旨味がなじんで格段においしくなります。前日仕込みでも問題ありません。
参考:日本イタリア料理協会によるヴィテッロ・トンナートの公式レシピ
ヴィテッロ・トンナート|一般社団法人日本イタリア料理協会
低温調理で肉が仕上がった後の「仕上げの工程」が、見た目と味の両方を大きく左右します。この部分は多くのレシピで省略されがちですが、実際には最も差がつくポイントです。
まず冷却の方法について。低温調理が終わったら、袋のまま氷水に入れて素早く冷やすことをすすめるレシピも多いですが、ヴィテッロトンナートに関しては「急冷しない方がしっとりした仕上がり」になることが分かっています。これは肉汁の流出と関係しており、急激な温度変化によって肉の繊維が縮み、内部の水分が外に押し出されてしまうためです。袋ごと冷蔵庫に入れ、一晩ゆっくり冷やすのが理想的です。
スライスの厚さは2〜3mm程度が目安で、はがき1枚の厚さ(約0.2mm)の10倍ほどのイメージです。包丁を斜めに入れる「そぎ切り」にすると断面が広くなり、ソースが絡みやすくなるだけでなく、見た目にも上品で高級感が出ます。スライサーがある場合は2mmに設定するとほぼプロ並みの厚さになります。
盛り付けの手順は以下の通りです。
盛り付け後は再び冷蔵庫で30分ほど休ませるのがベストです。ソースと肉が一体化し、食べる前にテーブルに出したとき「いかにも手が込んでいる」見た目になります。食卓に出す前に少し室温に戻す(10〜15分程度)と、肉の硬さが和らいで口当たりがよくなります。冷たすぎる状態では脂が固まり、舌触りが重くなるためです。これが基本です。
低温調理器を持っていない場合は、厚手の鍋に湯を沸かして火を止め、ジップロックに入れた肉を沈めてから蓋をして放置するという「湯せん保温法」でも同様の効果が得られます。湯の温度が下がりすぎないよう、途中で少し火をつけて温度を維持するのがコツです。厚生労働省基準を満たすためには温度計で中心部を必ず確認してください。
サイゼリヤのメニューに並ぶ料理の多くは、本場イタリアの郷土料理を日本の家庭向けにアレンジしたものです。ヴィテッロトンナートもその一つで、同チェーンがこれだけリーズナブルな価格で提供できるのは、食材の調達から調理工程まで徹底したコスト管理があるからです。では、自宅で再現するとどのくらいのコストがかかるのでしょうか?
豚フィレ肉(約300〜400g)の価格はスーパーで500〜800円程度、ツナ缶(オイル漬け、80g)は150〜200円、アンチョビは1本あたり約30〜50円(フィレタイプの缶詰で700〜900円前後)、ケイパー(瓶詰め)は200〜400円程度です。初回はアンチョビとケイパーの購入コストがかかりますが、どちらも一度購入すれば何度も使えるので、2回目以降はぐっとコストが下がります。1人前に換算すると、4人分を想定した場合の食材費は合計1,500〜2,000円程度、つまり1人当たり400〜500円ほどになります。
コストを抑えるための工夫を紹介します。
一方で、自宅再現で最も時間がかかるのが「低温調理の待ち時間」です。豚肉を安全に調理するには2時間以上かかります。低温調理器(BONIQなどのスティック型循環式加熱器)があれば温度管理が自動化されますが、持っていない場合は鍋の湯せん法でも十分に対応できます。どちらの方法でも「中心温度の確認」だけは省略しないでください。
サイゼリヤの料理をきっかけにイタリア郷土料理に興味を持った方には、「トリノ風ヴィテッロトンナート」を目標に設定するとモチベーションが維持しやすいです。本場では仔牛の煮汁でソースを作るのが正統とされていますが、豚フィレ肉の茹で汁でもソースに深みが出ます。「正統」を意識しすぎず、まず一度試してみることが大切です。これも基本です。
参考:本場ピエモンテ流のヴィテッロ・トンナートのレシピ(ツタ・イタリア)
ピエモンテ州の郷土料理 ヴィテッロ・トンナートのレシピ|Tutta Italia
参考:低温調理器BONIQによる加熱時間基準表(食材別の安全な温度・時間一覧)
「低温調理 加熱時間基準表」算出方法と根拠|BONIQ